片隅で逢いましょう

読書、絵画、夢想などのあれこれを嗜み、気ままに書き綴る方舟を漕ぐ旅人の手慰み日記。広大無辺の虚数の海の片隅へようこそ。

ピュグマリオンの系譜 ~あるいは、幻視者たちの郷愁~

1.  ピュグマリオンとピュグマリオニズム 

 

 この世で最初に「美」に耽溺した者は誰か。それは僕には到底知りえないが、最初に理想の美を体現せしめようとした人間ならば知っている。

 ギリシア神話に登場するキプロス島の王、ピュグマリオンである。

 彼は現実の女性たちに辟易し、自らが理想とする美女を生み出すことに血道をあげた人物として知られる男だ。

 こうして産声をあげたのが『ガラテア』だ。

    彼の手が自分の満足いくように産み出された女性は実に美しく、この世とものとは思われないような輝きに満ちた存在であっただろう。

 最後にはガラテアは人間としての命を与えられ、一人の人間としてピュグマリオンと仲睦まじく暮らすのである。


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ピュグマリオンとガラテア』

ジャン=レオン・レジーム 作

神の祝福を受けたガラテアが、今まさに彫像から人間へと変わろうとしている。神への感謝とともに愛を誓い、唇を重ねている。

 

 これは如何にも寓話的に仕立てられた感じのする伝説だが、ここでは愛の尊さや、その他もろもろの教訓の類いを語る気は一切ない。

    あくまで男性の欲望としてのピュグマリオニズム、ファンム・オブジェとしての『ガラテア』を求める欲動について焦点を絞って書いていきたいと思う。


 ピュグマリオニズムとは、この神話をモデルに命名された、れっきとした心理学、性病理学における用語で、人形に対する偏愛を示す用語である(澁澤龍彦が訳すところの「人形愛」である)。

 また、広義的な意味では女性を人形のように扱う性癖もこれにあたる。


 ファンム・オブジェとは、「客体としての女」を意味する表現である。

 なるほど、男が自分の満足いくようにつくった女と、創り出すことへの憧れ、実際の創造の態度は、間違いなく「客体としての女」相手でなくては完遂できないだろう。

 

 ガラテアに限らず、絵画、さらに俗に言うところの「二次元キャラ」もこれに近いところがあると思う。名画の美女や画面の向こうのキャラたちは永久に老いることがなく、自分の意思のおもむくままに、いかようにでも「扱える」存在であるからだ。

 ただし、文字通り次元が違うため、彼女らに僕らは触れることは到底叶わない。


 そして何より忘れてはならないのは、この世には盲目の人々、つまり絵を見れない者がいるということだ。

 服部まゆみの小説「この闇と光」では、盲目のレイア姫が父から説明を受けながら、ボッティチェルリの絵画世界を想像しようとするが、当の父親に匙を投げられてしまうシーンがある。

 

 不変の美と引き換えに画面や物語の中から出られない呪いにかけられた美女たちと異なり、「ガラテア」には手で触れることも出来る。だが、盲目でないピュグマリオンが自分の目で満足するように創りあげたのだから、結局は「ガラテア」も視線の先にある、見られる客体となることでようやくその真価を発揮することが出来る存在だ。

 ならば、盲目な人々は「ガラテア」を見つけることはできないのだろうか。ピュグマリオニズムとは、「形」のみによって成されるものなのだろうか。

 


 そんなことはない。その答えを探るために別の物語を参照していきたいと思う。

 なお、この日記をしたためる僕は男性であるため、今回は作り出す対象を女性として、男性における異性愛的視点を中心に書いていきたいと思う。

 ちなみに、僕自身は一切女性を差別したり、攻撃する意図はないので、くれぐれもご賢読願いたい。

 

 

2.  『盲獣』たち 

 

 日本文壇史上における推理小説の開祖たる作家、江戸川乱歩。彼の著名な作品の中に『盲獣』なるものがある。

 ご存知の同志も多いかもしれないが、大雑把に要約すると、盲目の男が美しい女たちを次々と殺害し、最後に独自の芸術を完成させる、という物語である。

 その不気味さ、目の見える人間たちを翻弄する盲獣の鮮やかさと危うい爽快さ、テンポの良いストーリーテリングで紡ぎ出される激動の結末にいたるまで、実にスリルと鮮烈さに満ちた怪作である。

 ピュグマリオンとガラテアの関係がそうであるように、彼の芸術は、彼自身のためにあるものに他ならない。ただし、世の中には、自己満足で作り上げたものが思わぬ反響を呼ぶ場合がある。

 僕自身もこの作品、盲獣の芸術に、ピュグマリオニズム的カタルシスと敬意を感じてやまないのだ。


 もちろん、僕は目が見えないわけではない。あきれるくらいの近眼だが、ものを書いたり、本を読むのには不自由しない。望遠鏡やメガネがあれば、この広大な海の上で、難なく方舟の舵をとることができる。

 ならば、なぜ盲獣の結末にカタルシスや敬意を抱いたのか?

 それは至極当然だ。ピュグマリオンと同様、彼も自らが知覚できる美を追い求めたからであり、僕自身にもその欲望があるからである。

 ピュグマリオンや僕なら微妙な色彩と陰影の織り成す美しい世界に目さえ開いていればすぐに飛び込めるが、「地底の盲獣」はそうはいかない。

  その代わりに彼は虫ほどに精密な「触角」を使い、蜘蛛の巣のような精緻に富み、ある人には恐怖症を引き起こす力を持った「芸術」を完成させるのである。それは、盲目の人々にとっての肉体の夢、本能と肉欲を充足させるおぞましい姿の熾天使なのである。

 目で見れる人々から見て、盲獣たちの夢がどれほど奇怪であるかは、ぜひ書物を紐解いて目の当たりにして欲しい。

 ところで、あらゆる物事は表裏をもってはじめて一体となるものである。

 盲獣にとっては、我々目が見える者たちが抱く夢、理想の美しさは、彼らにとって明くることのない絶望を示す闇でしかなかったのだ。この熾天使は、まさにその階位に恥じぬ恩恵をもたらしたのである。

 敬虔にして忠実な『盲獣』は、ついにピュグマリオンの「ガラテア」のごとく、至上の美、この上ない救済を同じ盲獣たちに与えたのである。彼は使徒だった。

 


 彼もまたピュグマリオンで、僕らもまた、時として『盲獣』に違いないのである。

 盲獣の「幻視」する世界は、視覚によって溺れるものではなかった、ということだ。

 反対に、時に欲望が映し出す世界を幻視する僕らは目が見えるだと果たして言えるだろうか。僕らが欲望を前にめしいた『盲獣』でもあることに他ならないのではないか。


3.  ピュグマリオンの系譜 〜あるいは、幻視者たちの郷愁〜 

 

 誰でも理想の恋人は「ガラテア」に匹敵する美貌を湛える肉体や、しとやかで慎ましい精神、自分への揺るぎない尊敬や愛慕心を、程度の差はあるが、これらをみな兼ね備えているものである。何より忘れてはならないのは、この幻想の不変性である。

   多少、時間とともに姿かたちの好みが変わっても、今あげたものは欠かさず持っていて、変わらず輝きを放つ華々しい存在ではないだろうか。


 女性から見れば、その姿は『猛獣』が最後に辿り着いた芸術作品のように、ある意味不気味なものとして映るかも知れないし、男性の態度に憤慨することもあるかも知れない。そもそも理解できない場合もあるだろう。

 

 作家、独文学者の中野京子は、著書『美貌のひと』で、この男女の「センサー」の差異にいたく感心したという、こんなエピソードを紹介している。彼女がある番組でアルテミジアの『ユーディトと侍女』を取り上げた時のことだ。


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「(画中で剣を担ぐ眼光鋭いユーディトを)ハンサム・ウーマンの一例として(自身が出演したテレビ番組で)絵画解説するつもりだったのだ。」

 


 ところが、ここで彼女が予想していなかった事態が起きる。年配の男性共演者に番組でこの『ユーディト』が映し出された瞬間、きびしく非難されたというのである。


「曰く、全然きれいじゃない。ユーディトはもっと美女のはずだ。異論を許さぬ断定口調で、誰も皆そう思うと信じ切っているようだった。」


 この『ユーディト』を描いたアルテミジアは女性だった。

 彼女が描いた勇ましいユーディト、男性を打ち倒そうとするハンサム・ウーマンとしての『美貌のひと』は、この男性にとってあまりに不器量で不都合な存在に見えたのだろう(夢見る男性共演者は、彼女が自分の寝首を搔こうとする殺戮者として、あまりにもリアリティ溢れる存在として見えたのかも知れない、と妄想もした。画中左下の男性の首と自分を重ね合わせ恐怖したのか)。

 


 この勇敢なユーディトには、『ガラテア』の持つ嫋やかな美しさ(=男性共演者が信じて疑わない美しさ、女らしさ)は確かに感じられない。観念の世界にあって、リアリティ、説得力は劇毒なのだ。

 このユーディトを皮切りに、中野は男性画家が描いたユーディトをモデルにした作品についても触れているが、我ながら男性のロマンチストぶりには感嘆する思いである。


「並みいる男性画家によるユーディトと、アルテミジアのそれには明らかな違いがある。前者はどれも虫も殺さぬ風情のか弱い美女ばかりで、気迫の欠片もない。生首と自分は無関係といった涼しい表情、あるいは嫌そうな顔をしている」


 せっかくなので、上の引用の一例としてカラヴァッジョの描く「ユーディト」を見てみよう。


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 今まさに首を切断されようとしている将軍ホロフェルネスの苦痛が見てとれる歪んだ顔貌を浮かべる横で、このユーディトときたら、まるで料理嫌いの娘が生肉を掴んでいる時のような嫌そうな顔をしている。その横の老婆は、たどたどしい手つきで包丁を使う孫娘を不安とともに監督している祖母のように見えてしまい、実際の状況とのアンバランスさに思わず吹き出してしまいそうである。


 中野の指摘通り、カラヴァッジョのユーディトには気迫はもとより、暗殺者たる主人公としての華麗さもあまり感じられないが、その理由は件の年配の男性共演者とおそらく同じ信条にあるだろう。

 彼らにとって、物語の女主人公は、とにかく美しい存在でなくてはならないのだ。この理想を画面に委ねる対象が、完全なファンム・オブジェ、この信条が広義のピュグマリオニズムでなければ、果たしてなんだと言うべきだろうか(横の侍女もユーディトの美しさを引き立てるために存在する、と中野は指摘している)。

 

 こうして、『ガラテア』のような彫刻に限らず、絵画や物語、果てには現実の世界においても、「美女」への飽くなき創造と想像はいくらでも繰り返されてきた。僕らは、いつでも自分の目に踊らされてきたし、「美」がまとう輝かしい光に包まれることを願ってやまなかった。

 


 女性にとってみればあまりに都合が良い、まさに人形のようだと思うかも知れないが、それが「幻想」の存在する理由に他ならない(そして、時に女性もまたこの幻想を生み出すものである)。

 彼女たちの意義は、現実を超越していることにある。極端なことを言えば、同性から見て薄気味悪いくらいでも良い。

 僕が敬愛する澁澤龍彦は、『少女コレクション序説』の中でこう書いている。


「小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受身の存在であるからこそ、限りなくエロティックなのである。(中略)女の主体性を女の存在そのもののなかに封じこめ、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかせしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが蒼白く活発に燃え上がるというメカニズムは、たぶん、男の性欲の本質的なフェティスト的、オナニスト的傾向を証明するものにほかなるまい。」


 もう一度断っておくが、僕は女性を差別したり、攻撃する意図は一切ない。

 実際に自分よりも若く、知識や経験の少ない女性の存在を喜ぶ男性が、人種を問わず少なからず存在するのは、こうした「本質的なフェティスト的、オナニスト的」思考や理想を内側に秘めているからに他ならず、澁澤はこの普遍的な本能の一側面を暴き出し、詳述したにすぎないのである。

 そしてその本能が駆り立てる情熱の姿は意外と単純なものだ。

 

「人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである」


 それは、あまりに理想的で利己的で、超越的な異性像。無自覚で強力な執着心が紡ぎ出す、見果てぬ夢の具象。「そもそも観念のなかにしか存在し得ない」、まさに人形、ファンム・”オブジェ”、まごうことなき「客体」なのだ。

 かように幻視者たちの夢は芽吹き、多様な広がりを見せ、美しいままに存在するのである。美女の肉体の先に本能のための快楽を、それぞれの幻視者たちにとっての光を見るのである。

 一連のマスターベーション的探求行為、創造の過程もピュグマリオニズムとして捉えるなら、最初にあげた広義的な意味の分野において、サディスト、マゾヒスト、その他各種の「プレイ」などもまた、一つのピュグマリオニズムの姿なのかもしれない。


「そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。要は、その表象された女のイメージと、実在の少女とを、想像力の世界で、どこまで近接させ得るかの問題であろう」(澁澤龍彦『少女コレクション序説』)


 観念の世界はまさに楽園、神々の祝福の下にアダムとイヴが暮らしたエデンの園なのだ。楽園を追放された後の人類であろうピュグマリオンや「盲獣」、そして僕ら。「一種の自己愛」と評された普遍的な苦しみは、かつていた故郷に抱く郷愁と、現実世界との葛藤なのではないだろうか。

 もしかすると、僕らの夢見る「楽園」は意外と近くにあるのかもしれない。

 


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