片隅で逢いましょう

読書、絵画、夢想などのあれこれを嗜み、気ままに書き綴る方舟を漕ぐ旅人の手慰み日記。広大無辺の虚数の海の片隅へようこそ。

『女神』三島由紀夫 (新潮文庫) 〜その美は誰がために〜

  「私は完全な女を作ったのだから、あの子が不幸になることは、女全体が不幸になることなんだ」


1. 周伍のピュグマリオニズム


 「男は目で恋をする」とは良く言ったもので、男の方が一目惚れが圧倒的に多く、しかも一目惚れしてからの恋愛や結婚は満足の度合いもそうでない場合と比べて一層高いという。その引力をこの文章を読んでいる同志にも思い当たる節がおありかもしれない。  

 著名人が浮名を流せば、真偽はともかく必ず「美女」の触れ込んで注目を引こうとし、その報せを受けて情報についての下世話な憶測や論議を巻き起こす事もポピュラーな手法である。

 前回の記事で取り上げた、「ガラテア」を産み出したピュグマリオンに始まり、理想の女の美を描いた古今東西の芸術家たちの仕事の数々は言うまでもない。

 紀州ドン・ファンこと野崎幸助よろしく、人生とその意義の全てを美女にかける男もいるほどだ。

 美しさは罪。という標語をしみじみと思い出さずにはいられない。

 その眩さに群れる有象無象の羽虫のごとき男たちの中には、アーツアンドクラフト運動でおなじみ、ウィリアム・モリスの様に自らの妻を「完璧な美女」と言われるまでの存在に仕立て上げてしまう技術と知識を持った者も少なからず存在する。


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ウィリアム・モリスの妻、ジェイン

元々は貧困層の出身だったが、夫の教育もあって名実ともに「完璧な美女」と称されるまでに成長する。ロセッティの『プロセルピナ』のモデルでもある。


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『プロセルピナ』

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 作

 

 さて、今回取り上げる本作『女神』の主人公、周伍もそんなピュグマリオンの系譜を継いだ者の一人である。

 この男、中々のやり手には違いないのだが本性は実に恐ろしい。彼は自分の中に強固な美の定義を持っていて、しかも、物語終盤まで、この姿勢を一度も崩していない。いわゆる「個性美」のような多様性についても否定的である。

   女性はとにかく、優雅でいなくてはならない、と考えていて、昨今の俗な言い方をすれば「トロフィーワイフ症候群」である。

 その美に対する熱意と執着は、まさに理想の実現を夢見て筆を走らせ、粘土をこね像を形づくる芸術家さながらの途轍もない圧力を放っている。

 読書中、その強固な信条と病的なこだわり、それを実現させる徹底した振る舞いに圧倒された僕など彼に言わせれば「くだらない青年」であることは間違いない。僕も美女は好きだが、到底彼には及ばないと思った。ある意味、フィクションがリアルを超越してしまった一例である。

 


 前述のウィリアム同様、 周伍も自らの妻を絶世の美女に「教育」していく。

 その手腕は確かなもので、教育を重ねて妻が舞踏会に出席した際には、女性美の模範そのものである外国人女性をもたじろがせる程の「女神」の如き美女に仕立て上げるまでに至った。

 理想の実現化の成功と、周囲からの羨望にご満悦な彼だったが、第二次世界大戦の戦火によって長きに渡って積み上げてきた美しさをほんの一瞬で奪われてしまう。

 愚かにも妻、依子はこの戦火により焼けている最中の家に置き去りになっていた物品を取りに戻った際、顔の左半分を焼いてしまったのである。

   なんと儚いことだろうか。

   それからの依子は、かつて自らに寄せられた羨望と栄光に満ちた思い出と夫、周伍への憎しみに囚われてしまったのである(その姿は実の娘に恐れられるほどである)。


 絶望していた彼だが、懲りることはなかった。

 ある日、自分の娘である朝子が、妻の美を受け継いでいることを見出し、かつての妻と同じ様に「教育」し始めることを思い付き、この物語が動き出すのである。

 そんなだから、この事件をきっかけに夫婦の関係は急激に悪化、憎しみを募らせるあまり依子は周伍に復讐を企てようと考える様になり、果てには元からそこまで愛情を抱いていなかった娘を目の敵にし始めてしまう(当の娘はこれに真正面から取り合おうとしないものの、かなり息苦しい思いをする羽目になる)。

 

 

2.  「女神」を取り巻く火


 本作では美しい娘を取り巻く一連の人物たちが、みな自らの理想や情動に強烈に縛られ、振り回されている様子がかなり鮮明に描かれている。

 ところで、僕が一層興味深いのは、後に娘に助けられる画家の男が自らも含めて、各々の心に沸き立つ感情に囚われる、朝子を取り巻く人物たちの姿を「火」に喩えているところである。

 執着、執念、盲信、憎悪、嫉妬、恋慕、悔恨、喪失、理想・・・。

 なるほど考えてみると、彼らは形は違えど「火」をそれぞれの心に抱くと共に、それが自らの身を焼いてしまっている様に見受けられる。そして、燃え盛る「火」たちの高まった情動や欲望の手に呑まれぬ様に、自らも「猛火」となる様、忠告するのだが、そのために娘は差し迫る火の手の数々、蜃気楼などではない、熱そのものに翻弄されていく様になる。

 周伍の独善的な理想は妻を巻き込み、娘も「完全」と評する程にまで育てあげたが、同時に彼は二人から奪ったもの、奪おうとしたものも多い。

 「火」はこの物語における重要なキーワード、下敷きになっている概念なのである。

 そういえば生まれてくる時に女神イザナミを死なせた神、カグツチも火の神(*)である。

 この『女神』の物語においては「火」の意義は事物の侵掠にあるのだ。

 

 火あぶりにこそされなかったものの、自らの美に執着するがあまり、遂には美しさが欠片も役に立たない暗がりで燻ったまま果てる最期を辿ったエリザベート・バートリ、現代なら整形依存に陥ってしまう女性も自らの火に焼かれている人々も「火」に焼かれて苦悶しているのかもしれない。

 理想という薪が時に起こす業火はかくも激しく燃え盛り、自らを呑み込んで焼き尽くしてしまうのである。止まる事を知らぬその業は、まさに「侵掠すること火の如く」である。

 業火が消えた時、果たしてこの親娘には何が残っているか?ぜひとも見届けてほしい!

 

 ところで、前回の記事でも触れたが、そもそも周伍の抱く女性像、「完全な」美しさなど、澁澤龍彦に言わせれば「観念の中にしか存在しえない」幻影に過ぎないのだ。現実ではなし得ない不変の女性美への執着に焼かれた何とも憐れな灰かぶり男のために、とある女性からの忠言を賜って、今回は筆を置きたいと思う。


「美とは本来ありもしないものなのだ。もしあるとすればそれを発見した個人の中にある」

                         ー  白洲正子

 

記紀神話に登場する火の神。出産時にイザナミの陰部に火傷を負わせ、これがイザナミが死亡する原因となった。その後イザナギに殺され、その血から新たな神々が誕生した。

 

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