片隅で逢いましょう

読書、絵画、夢想などのあれこれを嗜み、気ままに書き綴る方舟を漕ぐ旅人の手慰み日記。広大無辺の虚数の海の片隅へようこそ。

『インフラグラム』港千尋(講談社選書メチエ)〜「影像」を暴け〜

 それにしても「依存」というのは恐ろしい。これは本人が意識しないうちに体内に忍び込んでは牙を剥くウイルスのようだ。自らの生活の最中から、自らの核たる体内に紛れ込み、僕を病苦に陥れてしまう。細胞を持たず、食事も排泄も睡眠もしないくせに、増殖だけはするという、生物かどうかも怪しい存在。不穏分子の代名詞としてもおなじみだろう。時として、彼らの活動は僕らの身体を壊すのである。


 今回取り上げる写真家、港千尋が執筆した『インフラグラム』は、主に映像や写真、「光による描画」の変遷とそこに隠されたものを、文学、アートなどの幅広い観点から考察し、軍事や政治、社会にどのような変調をもたらすかを分析、考察した最近特におすすめしたい一冊である。


 気取った言い方をするなら、光の技術の背面に蠢く闇の観察記録と思考実験の書である。

 

 

1 .  『インフラグラム』

 本書の表題になっているこの造語。初見時には、あの「インスタグラム」を想起させることだと思うが、これこそ港の思うところを込めたメッセージにして、本書の主題である。そこには「インフラ」に重要な意味がある。


 (インスタグラムに似た響きを聞いて)そこで思い出してほしいのは、インスタグラムが「テレグラム」すなわち電報から発想された造語だという点である。テレ+グラムが遠隔性の言葉とすれば、インスタ+グラムは瞬間性の言葉だろうか。同じ発想から、インフラ+グラムは現代社会のインフラ言語としての、写真や動画を含む映像である。風景と肖像は写真というアートの主要なジャンルだが、そのどちらもが情報社会の根幹をなす時代という意味でもある。(同書 p.70 )


  infrastructure、つまり、写真や映像(「光による描画」)が、記録や表現のための特別なメディアとしての範疇を超え、社会生活の基盤を担う「下部構造」へと変貌を遂げたことを示す造語なのである。

 いまや、時に人々をいずこへ連れ去り、民意や注目を傾け、個人を破滅に追いやるほどの影響力を持つに至った「光による描画」の技術。その力は、いまや個人の顔とその表情さえ識別してしまえるという。

 絶大な力を持つようになった写真や映像の現在を理解するには、その歴史を少し振り返るのがよい。(本書はそうした通史としての側面もある)

   奇しくも、今年は写真が世に生まれ出て180年の節目を迎える年である。(なんと用意周到なことだろう!)


 社会が大きく変容する時、そこには必ず時代の要請があり、それを満たし得る形に変貌を遂げ、規格を満たした最新のデバイスおよびシステムが旧式のものに取って替わる(この点を的確に見定めるためにも、社会学はもっと丁寧に扱われるべきだ)。

 

 そこで、写真の初期の作品を少しだけ見てみよう。本書でも紹介されているカロタイプの作品とダゲレオタイプの一例である。

 

 


f:id:PortHill:20190618205542j:image

 ↑

 史上初の写真集『自然の鉛筆』に収録されている一枚。ネガーポジ法の開祖であり、明るい画面にくっきりとした陰影のコントラストが被写体の植物に立体感を与えている。手で触れそうな気分になる。

 


f:id:PortHill:20190618205551j:image

    ↑

 こちらは銀メッキをした銅板などを感光材料に用いるダゲレオタイプ銀板写真)により撮影された、発明者ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールのアトリエ。こちらも立体感があり、陰影がとても美しいが、複製の効くカロタイプにリードをゆるした。

 

 ご覧の通り、写真は誕生当初からすでに表現を叶えるメディアとして高い実力を誇っていた。その初期の作品と、現在のデジタルの写真を見比べてみればその質の差異は歴然である。注意してほしいのは、「質」とは、過去と現在のアートとしての価値の真贋ではなく、両者の純粋な「性質」の差異である。デジタル写真は、初期の写真に比べてどこか事務的だ。画法を駆使して描かれた一枚の風景画があるなら、デジタル画像はそのコピーに近い。そう表現すればいくらか的確だろうか。

 現在の写真のあり方が大きく変わったのもまた、社会の「要請」によるものである。

 

  デジタルが急激に成長したのは、イメージではなく、社会全体がデジタル化したからである。(同書 p.67 )

 

 デジタルイメージ、すなわち「電子工学と IT技術の開発史上にある」複合物、『インフラグラム』のプログラムの登場である。それにしても「下部構造」とはよく言ったものだ。それなくしては僕らは生活がままならない程に日常に溶け込んでいながら、そのネットワークが目に見えるわけでもないまま生活の一部になっているせいで、どこか概念的で掴みどころがない。物質的で概念的。なんともアンビバレンツな機構である。

 そして、その機構を駆け抜けるデジタルイメージの恐ろしさはその本性にある。

  

 

 哲学者ヴィレム・フルッサーが使った「テクノ画像」という言葉を借りれば、デジタルイメージとは複合的な技術のうえに成り立つ、一種の「コード」である。

 ・・・一九九〇年代以降のデジタル写真を成り立たせているのは、プログラム言語を含む複合的なコードである。したがって平成の大逆転が起きたのは、複合的な技術によって社会全体がコード化され、その中心的な役割を「テクノ画像」としての写真が担うことになったからなのである。(同書、 p.66 )

 


 それは「コード」。僕らの欲望を代弁する、あの記号の悪魔的メカニズムである。

  

 

2. 機械による「訓練」〜ブラックボックス化について〜

 


 このコードによって引き起こされると危惧される社会の変調、それは「社会のブラックボックス化」である。

 ブラックボックスの概念自体はすでにご存知かもしれない。内部を知らなくとも、外部の機能を用いれば望む結果を手にすることが出来る装置や機構を表す用語である。そして現代の機械は、一介の人間では到底わからないほどに内部は複雑になっている。

 認知心理学者である下條信輔は、コード、プログラムを司る機械が、今では自身の体の一部のように扱えるようになっているが、そんな人間が増えることで、「現代社会がそのままブラックボックス化しているのではないか」と言及した。

 その類型を彼は三つに分けているが、その中で最も想起しやすいのが、「仕組みや因果関係が見えないこと」だろう。

 その上で彼が最も恐れていることは、人々が「ブラックボックス化」することである。

 

 仕組みや因果関係がわからないほど錯綜するしてくると、どこかで見切りをつけるようになる。米国発のフェイクニュースポスト真実はトランプ政権と結び付けて報じられてきたが、実はもっと深いところに根があるのかもしれない。(同書、p.76 )

 


 心のブラックボックス化とは、刺激に対して複雑な判断ができず、型にはまった反応しかできなくなることだ。(『ブラックボックス化する現代』*、 p.39 )

                       *本書で引用されている参考文献の一冊。

 


 これは考えてみればむしろすぐに納得のいく話である。社会とは個人の集合に他ならないからだ。

 そして、複合的「コード」は内部を及び知らぬ機構の中を駆け巡っている事実がここに潜んでいる。

 こうした膨大な量のメタコードは最終的にビッグデータとなって人々の行動をプロファイリングし始め、ついには人々に向かって発信を始めるようになるのだ。

 

 少なくとも一九二〇年以降の写真とは大衆化、群衆化の時代のメディアである。このときの「群衆」とは何か。ただ多数というのではない。そこで問題になる「膨大な量」とは枚数やギガ単位などの数量で表すものではなく、「常に増殖していく」という意味での多数である。写真とは増殖のメディアである。(『インフラグラム』、 p.79 )

 


 かくして、人々は自分自身の志向、指針さえ分からず、混迷し、やがて自暴自棄になる。ここに、ウイルスによる人体への侵食が僕には思い出されたのである。冒頭でウイルスなどと書いた理由はこのためだ。そして、それを内包した存在が近現代における映像や写真なのである。

 


 ところで、この水面下の人民支配のプロセスを早くから予見していた者も少なくなかった。

 ちょうど、僕らがいま人工知能の台頭に怯えているように、当代の人々も同じように機械による社会規範に対するパラダイムシフト、その急速に「増殖」するウイルスのような不穏さに神経を尖らせていたのだろう。

 その中で端的に、かつ詳細にこの恐怖を指摘した人物の一人がポール・ヴァレリーである。彼はその名著『精神の危機』の中の「知性について」の章において以下のように語っている。

 


 機械が支配する。人間の生活は機械に厳しく隷属させられ、さまざまなメカニスムの恐ろしく厳密な意志に従わされている。人間が作り出したものだが、機械は厳しい。(同書、 p.90)

 

 

 人は機械からの「訓練」を受ける、とヴァレリーは続ける。現代ではそれは「コード」なのであるが、この訓練によって与えられたものは肉体や意識の中に忍び込み、血流によって体内の隅々まで行き渡り、知らず知らずのうちに日々増殖を進めていく。教育もそうだが、これはある意味、侵されていることに気づけないウイルスのようである。

 そのウイルスには、自身の生育環境が不可欠であるように、機械にも「訓練された人間」が必要なのだとヴァレリーは続ける。

 それは、自らを生かすための包括的な環境と変貌した人間。自らのために最適化された人間。

 さすがのヴァレリーも粟立つ肌を掻きむしったことだろうが、より示唆に富んでいるのはこの続きである。

 

 最も恐るべき機械は回ったり、走ったり、物質やエネルギーを輸送したり、変形したりする機械ではない。銅や鋼で作られたのとは別の、厳密に専門化した個人からなる機械が存在する。すなわち諸々の組織、行政機関といったもので、非人格的であることにおいて精神の存在様式に範を取って作られたものである。

 文明はこの種の機械の増殖・増大によって測られる。それは感覚的には鈍感、意識もほとんどないが、極端に肥大化した神経系のごとく、その基本的・恒常的なすべての機能を過剰なまでに備えた存在になぞえられる。(同書、 p.91 )

 


 本書で港が指摘してみせたとおり、概念的で目視しづらい「非人格的」なコードは急速な増殖の一途を辿る。ヴァレリーのこの一連の言説がいまも色褪せないのは、まさにこの真価を肌で感じ取っていたからである。

 先ほどデジタルイメージを「コピー」と比喩したが、プログラムを制御する機械はその性質上、実に事務的である。単なる信号であり、記号である。なるほど、ただ「それであること」がわかれば、芸術の美しさを分ける陰影や光の加減、それにより掘り起こされる被写体の立体感、綿密に切り取られた構図も不要だろう。その態度は、まさに何らかの要請に対して然るべき対応のみが求められる、冷徹な「行政機関」の形容にいかにもふさわしい。

 

 ところで、訓練というといかめしい風景を思い浮かべるかもしれないが、そればかりとは限らない。あの条件反射で有名なパブロフの犬も訓練の賜物である。

 日々の教育、もっといえば、暮らしのすべては概して訓練とその成果であり、機械を使いこなすようになる、知らずの内に慣れることもその一貫に過ぎない。

 

 

3. 「視ることを視る」


 フルッサーヴァレリーのようにその変調の訪れを予見していたかのように言い知れぬ危機感や違和感を形にしたのが、アートの世界である。その中でも群を抜いているのは、本書で度々取り上げられる女性アーティスト、三上晴子である。

 ヴァレリーは、「非人格的な機械」を「極端に肥大化された神経系のよう」だと表現したが、三上の作品も、この神経系のような連なりを彷彿とさせる。本書でも取り上げられている彼女の作品、「モレキュラー・インフォマティクス 〜視線のモロフォジー〜」を見てみよう。 

 

 

f:id:PortHill:20190618211632j:image


f:id:PortHill:20190618211638j:image

 ↑

 

 「スクリーンに投影されるグラフィックがモレキュラー=分子状モデルと呼ばれるのは、視線の動きが断続的だからである。動きが一瞬止まる点が球体によって示され、点と点が線で結ばれていき、全体が3次元のモデルのようになる。」(『インフラグラム』p. 17 )

 


 当時はVRは未知の技術という扱いで、非常にセンセーショナルな存在だった。そしてこの作品の最大の特徴は、視線と連動してスクリーンに映るモレキュラーが動くことである。

 それゆえ、作者である三上はこの作品を「空間と身体が対話する環境」と呼んでいる。

 

 ところが、この作品を一目見た著者はある種の当惑を覚えたと綴っている。

 

 ・・・当時を主催者や作者による解説とはやや異なる感想をもった。それは自分の視線を見ているというよりは、仮想空間内に次々と現れる分子状のモデルに神経を集中することの、なんとも言えない奇妙さであった。よいうのも、画面上に現れる軌跡が、ほんとうに瞳の動きを反映しているのかどうか、自信が持てなかったからである。(『インフラグラム』、 p.17 )

 

  それは自らの「視る」ことに関する根本的な不安のように思う。事実、彼はこの作品を見てから今まで『「視ること」と「焦点を合わせること」を近藤していたのではないか』と感じたと綴っている。


 そもそも、「みる」ということはいかなることであるか?本当に僕らはそれが出来ているのか?という基本的な問いかけから本書は筆を進めている。

 これまで見てきたように、『自然の鉛筆』で描かれていた「写真」とプログラムとして機能する現在の「写真」との間に歴然と性質の違いをすでに港は指摘しており、。

 近代よりその意義を変質させ、コード化された写真や映像を、機械のために最適化された僕らは、いかにして何を「視る」というのか。

 メディアの発展、変質とともに自らも姿を変える「光による描画」と、その奥底に隠された「影像」を本書は暴き出さんとしている。

 話題は原初的な「視ることを視る」ことに始まり、インフラグラムの台頭、映像や写真のもたらす変化、それを受け取る社会、軍事、政治の変調。そして、人間自身について。多様な広がりを見せる。

 最新のメディア論にして、社会学。コードの現象学。現代機構に潜む影像を観察する新たな遠近法として、本書はかなり興味深かった。

 


<追伸>

 そんな次第で、僕は予定を変更してこの本について書かざるを得なくなってしまった。

 文章の構成にまた追われることだろう!

 


===================

実績「影像を暴け」を解除しました!以下のアイテムを入手可能です。

 

インフラグラム 映像文明の新世紀 (講談社選書メチエ)

インフラグラム 映像文明の新世紀 (講談社選書メチエ)

 

 

SEIKO MIKAMI

SEIKO MIKAMI

 

 

自然の鉛筆

自然の鉛筆

  • 作者: ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット,マイケルグレイ,青山勝,畠山直哉,ヘンリー・F トルボット,金井直,ジュゼッペペノーネ
  • 出版社/メーカー: 赤々舎
  • 発売日: 2016/02/06
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (9件) を見る
 

 

自然の鉛筆

 

実績「"震える賢者は未来人の夢を見るか?"」を解除しました!以下のアイテムが解禁されます。

 

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

 

 

ヴァレリー詩集 (岩波文庫)

ヴァレリー詩集 (岩波文庫)